「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3−6)
折原 浩
2005年2月26日
第四節「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷の元」(承前)
11.「夢よ、もう一度」――「大迂回」による「謎解き」、ふたたび成るか
さて、羽入は、「貨幣増殖を『最高善』とする(個々人の『幸福』や『利益』には超越的で非合理な)経済倫理」というヴェーバーの理念型的定式化につき、その「論拠となる」叙述が『自伝』中には見当たらない、と決めてかかったあと、つぎのように述べて、「迂回路」に乗り入れる。「したがって今回もまたわれわれの取るべき戦略としては、該当すると思われる箇所を直接に――そして恐らくは無駄に――『自伝』の中に捜し回るよりは、むしろ迂回路を取って、『倫理』論文中のヴェーバー自身の叙述の中から手掛かりとなるような箇所をまず探し当て、次にそこでのコンテキストからしても、また論理的に見てもこの箇所をヴェーバーは自分の主張の論拠としたに違いないという部分を『自伝』の内に見つけ出す、という方法を取ることがやはり得策であろう」(177)。
羽入がここで、「今回もまた」とか、「やはり」とか、記しているのは、つぎの事情があるからである。ヴェーバーは、「倫理」論文第一章第二節第7段落で、フランクリンの経済観における「自己中心的(功利主義)原理の粉飾を越える」側面に注目し、その証拠として、「[フランクリンに]善徳が『有益』と分かったのは神の啓示によるもので、それによって神は自分に善をなさしめようとしていると[かれは]考えている」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)と述べていた。羽入は、羽入書第三章第二節「『神の啓示』の謎(1)」で、この箇所に見える「啓示Revelation, Offenbarung」という一語を抜き出し、その語義を、(ヴェーバーは、辞書にも記載されている普通の語義どおり「天啓一般」「啓示宗教」という意味で用いていたと解され、「謎」でもなんでもないのであるが、羽入はそれを)「啓示体験」「劇的な回心をもたらす聖霊降下の体験」というふうに「独り合点」で転釈し、羽入の脳裏に宿り居座ったその意味の「啓示(体験)」を「キーワード」に見立て、検証資料もやはり『自伝』と決めてかかって、十八番の「キーワード検索」にとりかかる。そして、その意味の「啓示(体験)」に対応する叙述が『自伝』中に見当たらないという(「独り合点」が「まぐれ当たり」するのでなければ、それも当然の)事実を、「謎」「唖然とするような世界的な盲点」(146)と称したうえ、(『自伝』ではなく)「倫理」論文から、(ヴェーバーは、反対証拠、つまりフランクリンにおける功利的傾向の証拠として挙示していた)「徳への改信」物語を引いてきて、これと混同し(つまり、証拠と反対証拠とを「一緒くた」「ごちゃ混ぜ」にし)、この「改信」に対応する叙述を『自伝』中に捜し、これについては「啓示」という語が見つかるが、この「啓示」は「天啓」「啓示宗教」「(非宗派的)キリスト教」の意味で「啓示体験」ではないという(これまた「早とちり」しなければ初めから分かりきった、当然の)事実に行き当たる。ただそれを、羽入だけは(あるいは、加藤寛/竹内靖雄/中西輝政/山折哲雄/養老孟司らだけは、以前から燻っていた反「大塚久雄信仰」、反「戦後近代主義」の「同位対立」的反感に誘導されたのか)、「大迂回」によって初めて達成された「謎解き」と信じ込み、ヴェーバーがフランクリン『自伝』の信憑性ある英語版、ましてやオリジナル版を参照しなかったばかりか、「中学生にも分かる英文法をわきまえなかった」「杜撰」の証拠と称し、「学者にあるまじき軽率」と息巻いて、「世界初の大発見」に酔い、凱歌を挙げた。羽入は、こうした奇妙な「大迂回」、独り合点の妄想による「自縄自縛」を、首尾よく「大発見」にいたった手順と勘違いし、ここ第四節で「夢よ、もういちど」とばかり繰り返そうとする。ただ、第二節ではまだ、そうした「迂回路」が「本来の学問的手法としては……あくまでも邪道」「そもそもが本末転倒の作業」(147)と自覚されていたが、ここ第四節では、直前の「大成功」に気をよくしたのか、その自覚も失せて、「戦略」に格上げされたようである。では、その「戦略」にしばらく付き合うとしよう。
12. 人生と営利との「倒錯」――「自然主義」への誘い水
ヴェーバーは、「貨幣増殖を『最高善』として『禁欲的』に追求せよ」と説く倫理的要請を、フランクリン経済倫理の「類型論的」特徴と見、第一要素的理念型として鋭く定式化したあと、そうした事態を、人生と営利との主客転倒(本来は、人生が目的で、営利はその人生の物質的要求を充たす手段にすぎないはずなのに、その目的−手段関係が逆転して現われている倒錯/本末転倒)、「囚われない感じ方das unbefangene
Empfindenからすれば、いうなればwie wir sagen würden『自然のnatürlich』事態をひっくり返したおよそ無意味sinnlosなこと」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、74)といってのける。つまり、かりに「『自然(ないし自然主義)の』観点に立てば、そのかぎりで、その事態を『非合理的』で『無意味な倒錯』といってもよい」と、当の言い回しを容認している。
とはいえ、ヴェーバーはここで、(この点よく注意してほしいが)そうした「自然主義」にみずから加担しているわけではない。なるほど、かれは、そうした「自然主義」が、近いところではフォイエルバッハ、マルクス(とくに『経哲草稿』のかれ)、ニーチェから、(ヴェーバー没後には)K・レーヴィットらに引き継がれ、喧しく主張されている[1]ところからも明らかなとおり、可能な価値観点のひとつとして、そのかぎりで成り立つことを(確認ないし先取りして)認識してはいた。しかも、その口吻を借りれば、問題の事態を特徴づけしやすく、読者にも納得されやすいであろうというので、上記のとおりやはり一種の「トポス」(共通の場)として活用するにはした。しかし、それではかれ自身も、当の価値観点に与するのかといえば、けっしてそうではない[2]。ヴェーバーは、そうした認識のうえに、なおかつ、みずからはそうした「自然主義」に与することなく、「囚われない感じ方」にも囚われることなく、それを「合理主義」の一類型として相対化する。そのようにして、むしろ「合理主義」「合理化」の多義性を見据え、これを逆手にとることで飛躍的に拡大する地平に歩み出て、そこからやはり、当の「自然主義」ないし「自然主義」的「合理主義」を問題とし、「トポス」を揺さぶり、読者にも、馴染まれた「自然主義」を問題にしていくように促しているのである。
この地平に立って見れば、「自然主義」の価値観点からすれば「非合理的」で「無意味な倒錯」も、他の観点からは「合理的」で「有意味な」事態として捉え返される。というのも、そうした「倒錯」は、「(近代)資本主義のひとつの基調ein Leitmotiv des Kapitalismus」をなし、「当の[「資本主義文化」の]雰囲気に触れたことのない人間には、まったく疎遠fremd」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)な代物である。したがって、その事態に編入され、「当の雰囲気に触れ」た人間は、当然「疎遠」感から「反感」を触発され、「同位対立」の「反(近代)資本主義」(というよりも、人生との「主客転倒」に陥り、「自然主義」的「反感」の対象となるのは、「近代経済/近代資本主義」的営利追求のみではなく、「近代科学」的真理追求、「近代政治」的権力追求、「近代芸術」的美追求など、「近代的文化諸形象」の「(持続的目的追求行為としての)経営Betrieb」にかかわる、それぞれの観点から見て「合理的」な「職業」活動一般であるからには、それらの全般にたいする「自然主義」的「反感」にもとづく)「反近代合理主義」「反近代主義」に赴くであろう。そのなかからは、「近代的文化諸形象」の「経営」のなかで(実態的また外見上)「抑圧」されてきた「自然」の「復権」「解放」を唱える思想家も現われよう。ところが、そうした動きには、「機械的反定立」を好む人間精神の脆弱さから、「非合理」で「無意味な倒錯」をとおしてこそ発展をとげ、維持されてきた「近代」の生産力/学問的研究水準/法治国家的(相対的)安定/芸術的達成と享受……総じて「近代」の生活水準を、いかにして維持、制御、再編制していくのか、「変革」を唱えるとすれば、少なくとも過渡期的には「近代」期よりもいっそう強められなければならないであろう「規律」「禁欲」を、いかに創り出し、耐えていくのか、といった諸困難に対処する確たる構想も見通しもなしに、ただバラ色に「自然」を対置し、「近代」的「経営」を破壊しさえすれば、「抑圧」されてきた「自然/人間的自然」がおのずと「解放」され、「無垢の白紙状態」から「自然に伸長して全面開花する」かのように見紛う「ロマンチシズム」「ロマン主義的反動」が、ともなわざるをえないであろう(し、現にともなっている)。ヴェーバーが好んで用いた比喩では、「老獪な悪魔の手口を見抜かずに、悪魔に立ち向かう」ような(本人自身は大真面目の)軽挙盲動である。とりわけ、西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」に生をえた「インテリゲンツィア」(A・J・トインビー)は、やがて「近代」的「経営」体制に編入され、(「戦後近代主義」のような)「ヘロデ主義」的「西洋派」「西洋近代主義」ないしはその亜種にいったんコミットして、「その雰囲気に触れ」、それがじつは「非合理」で「無意味な倒錯」であったと気がつくと、かれらのばあいにはその「疎遠」感と「反感」に異文化への違和感(たとえば反ピューリタニズム、キリスト教嫌い)も重なり、それだけ反転して「同位対立」の「自然主義」に引き寄せられやすいであろう。
ところが、そうした(根底において反動的/退嬰的で、闘うべき相手の手強さも知らない)「自然主義」では、とうてい近代資本主義ばかりか、近代科学、近代政治、近代芸術など、近代的文化諸形象の日常的「経営」の現実に耐え、そこに日々生じてくる問題を、現実に「責任倫理」的に、解決していく[3]ことはできない。そうした「自然主義」では、現実に「自然」「人間的自然」を奪回していくことも、とうてい無理であろう。歴史に「救済」(地上に「楽園」)を求める無責任な「ロマン主義的反動」に走り、有害無益な「随伴結果」をともなわなければ(まかりまちがって――たとえば敗戦時の「どさくさ」に紛れて――政治権力を握り、長く禍根を残すようなことがなければ)「もって瞑すべし」の荷厄介にとどまるであろう。というわけで、近代資本主義ほか近代的文化諸形象の「合理主義」を、これまたひとつの可能的価値観点として採用し、そこから「自然主義」ないし「ロマン主義」をまったく同様に「非合理的」で「無意味な反動」と見ることができる。しかも、「自然主義」ないし「ロマン主義的反動」は、「囚われない感じ方」に「受けがよい」が、「近代合理主義」のほうはそれに逆らうから、これを正面から見据え、その「手口」を見抜き、「来し方、行く末」を見とどけるのには、それだけ特別の(「囚われない感じ方」を越える)努力、それだけ周到な学問的/科学的研究を要する。そこで、ヴェーバーは、「自然主義」はもとより「近代合理主義」をも(かれ固有の生活史的・実存的契機から)相対化しおおせた地平[4]に立ち、そこから多義的な「合理化」を「嚮導概念(構想)」として逆利用しながら、「近代合理主義」の「来し方」を探り、その「手口」を見抜こうとするのである。
13. 「合理化」の極限/遡行極限に索出される「非合理的なもの」――フランクリン経済倫理の帰結ならびに背景
さて、「合理化」を「嚮導概念」に据えると、その極限および遡行極限に「非合理的なもの」を索出していくことができる。ヴェーバーは、このフランクリン経済倫理のばあいにも、「貨幣増殖を『最高善』とする『禁欲的』――その意味で『合理的』な――営利追求」への「生き方の合理化」を、要素的第一理念型に定式化し終えたところで、そうした遡行と索出をくわだて、順次二要素を加え、ダイナミックに「資本主義の精神」の「歴史的個性体」概念を組み立てている。なんども同じ箇所を取り出して解説を繰り返すようであるが、こんどは「合理化」概念による「非合理」の索出という方法的意義に焦点を合わせ、(最晩年に定式化された)「目的合理(−非合理)性」と「価値合理(−非合理)性」の対概念を導入して、ヴェーバー自身の思考展開を再解釈してみよう。
かれはまず、二文書抜粋から、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴されるフランクリン経済倫理の一面を、「貨幣増殖を人生の自己目的とみなし、全生活時間と全対他者関係を、したがって正直/規律/勤勉/節約/謙譲などの徳目遵守さえも、当の目的を達成する手段に繰り込み、ひたすら貨幣増殖に捧げよ」と「命令口調で」要請する(そういいたければ「倒錯」を命ずる)倫理――そういう独自かつ稀有な「生き方の合理化」をもたらす「実践的合理主義」の一「類型」――として、鋭く定式化した(第一要素的理念型)。そこでは、「貨幣増殖」が、いったいなぜ、「自己目的」たりうるのか、とは問われず――すなわち、その背後にまで遡って、いっそう高次のなんらかの目的から、その手段として演繹されるか、あるいは、いっそう高次の究極価値から、下位価値として意味づけられるか、することなく――、とにもかくにも「自己目的」として、いわば「天下りに」設定されていた。「貨幣増殖」が、(一定の「倫理的」ないし「法的」「規範」を「固有価値」とする「価値合理的」な制限には服するとしても)すぐれて「目的合理的」な手段を採用して常時追求されるべき「究極目的」として、(個々人の「幸福」や「安楽」にたいしては)「超越的」「非合理的」に、「問答無用」のかたちで、措定され、要請されていた。別言すれば、そうした「生き方」の「合理的」な根拠は、まだ問われてはいなかった。ただ、当の「生き方」が一面的に鋭く、極限まで煮詰められることによって、「なぜ、そうまでして(貨幣増殖に専念しなければならないのか)」との問いが触発される直前まで(叙述においても)きていたのである。
つぎにはむしろ、そうした「合理化」の(「根拠」「遡行極限」ではなく)「帰結」「展開極限」のほうが、「そうした生き方を突き詰めていくと、いったいどうなるか、なにがもたらされるのか」という問いをもって問われた。この問いには、一般的には、貨幣増殖が「自己目的」としてもっぱら強調されればされるほど、手段系列にたいするもっぱら「目的合理的」な(自己)制御が強まり、(「倫理的」ないし「法的」「規範」を「固有価値」として意識的に遵守しようとする)「価値合理的」制約が排除されて、(R・K・マートンのいう)「刷新innovation」類型の(「目的のためには手段を選ばない」)「逸脱行動」が発生してくるであろう、との答えが、(同じく理念型的な一極限として)予想されよう[5]。ところが、そこに行き着く手前で、手段(行為)にかんする「目的合理的」考量から、手段(行為)にたいする「価値合理的」制約を全面的に排除するのではなく、外形上は「規範」遵守を装うことによって「目的合理的」に(貨幣増殖のための)「信用」は確保しながら(それでも確保できるとして)、内面的にまで「規範」を遵守して「価値合理性」を維持する(「目的合理性」の観点からは無用無益という意味で「非合理的」な)心的負担は軽減し、公然たる「規範」侵害にたいしては予期される負の「制裁」も避けるほうが「賢明」「得策」である、との中間的解答が引き出されよう。外形だけで(「目的合理的」に等価の)効果さえ達成できれば、外形だけの代用で十分で、それ以上の「価値合理的」「規範」遵守の努力は無用無益(「目的非合理的」)である、としてしりぞける「功利主義」的な解答である。ヴェーバーも、この解答は明示的に引き出して「功利主義には避けられない帰結」と呼んだ。とすると、フランクリンには確かに、「目的合理的」考量を重視し、「価値合理的」な「規範」遵守をも、その効果を「目的合理性」の観点から評価して「目的合理的」手段系列に編入しようとする(ただし、しきれない)、そういう「功利主義」への傾向が、顕著に認められる。そうした「目的合理性」が「ひとり歩き」して「価値合理性」による制約を排除していけば、つまり「目的合理性」という意味における「生き方の合理化」が一面的に徹底されていけば[6]、その極限には、「外形のみの規範遵守」「偽善」という「価値非合理性」が待機していよう。
ところで、フランクリンの「経済観」が帯びているもろもろの傾向のなかから、「功利主義」ひとつを取り出し、このように「思考のうえで高め、極限にまで煮詰めて」、一面的に鋭い要素的理念型(第二要素的理念型)を構成し、この「合理化」尺度をフランクリンの現実の「生き方」に当ててみると、じっさいにはどうであろうか。かれはもとより、そうした「功利主義」の帰結に行き着いて、「偽善」を顕示的に説いているわけではない(かれは、もし問われれば、「うわべだけの徳目遵守では、やがて見破られて、信用を保つことはできない」と答えたのではなかろうか)。そればかりか、かれの「説教」が、黙示的な、つまり粉飾を凝らした「功利主義」であるともいいきれない。それにしては、フランクリンは、「貨幣増殖−信用取得−徳目遵守」という系列の第三段目に、「目的非合理的」ともいえるほどに力点を置き、正直/規律/勤勉/節約/謙譲といった徳目を、(当面の目的にたいする手段としての効果とは別に)「固有価値」に見立て、そういう「十三徳の樹立」をそれこそ「自己目的」「固有価値」として定立し、身につけ、習慣とし、「エートス」化しようとした。ただ、そうした「十三徳の樹立」という「価値合理的目的」にたいしては、日毎の自己審査手帳という「目的合理的」(であると同時に、「信仰日誌」の系譜に連なる「価値合理的」)手段を採用して、異例にして稀有つまり「類型論的」に特徴的な、並々ならぬ努力を(少なくとも一定期間)持続したのである。
ところで、かれは、こうした「手段」の採用によって首尾よく「十三徳の樹立」という「目的」を達成し、「完徳の域に達した」と、すべてを「目的合理性」のカテゴリーで考えていたのであろうか。いな。けっしてそうではない。かれはただ、「そういう『目的』を立てて、それをめざして努力しなかったばあいにくらべて、いくらかはまし」で、それだけ徳性を高めることはできた、とする。そして、この徳性向上が、「神の摂理」によって、つまりすべての(非宗派的)「啓示宗教」に知られている「勧善懲悪神」のはからいによって、だから、もっぱら自分の「目的合理的」な意図どおりにではなく、そのときどきにおける自分の個別の意図にたいしては「思わざる結果」「思った以上の結果」として、「信用」の獲得と(長期的)確保から「貨幣増殖」にいたる効果にも連なった、その意味で自分の人生は「幸運」「幸福」に恵まれていた(「利益」「幸福」を自力で「目的合理的」に創り出してきたとはいえない)と感得し、「神の恩恵」への感謝を衷心から表明するのである。
要するに、フランクリンの経済倫理は、「生き方の目的合理化」という意味では、なお「価値合理性」の(「目的合理性」にたいしては)「非合理的」な制約に服しているという意味で、また、個々人の「利益」ましてや「幸福」を「人間としての『目的合理的』考量や処理能力を越えたもの」と受け止めているかぎりで、不徹底であり、「(純然たる)功利主義」というには足りない。この確認によって初めて、そうした「目的合理化」の一面的徹底を背後から引き止めている対抗/拮抗要素としての「価値合理性」は、いったいどこからくるのか、という遡行極限への問いが発せられよう。この問いはここで、第一要素的理念型から導かれた、「なぜ、そうまでして」との問いと、合流するであろう。こうして、(第一/第二)要素的理念型から、それぞれが一面的に鋭く構成されればこそ、翻ってそれぞれを現実と対比して「経験的妥当性」を検証しようとするとき、「貨幣増殖を『自己目的』/『最高善』として要請しながら、同時に、その目的を追求する『目的合理的』手段系列の行為には、なお一定の『価値合理的』制約を課して、『功利主義』的『偽善』への転態を引き止めている、(幸福主義や快楽主義にとっては)『非合理的』な対抗/拮抗要因とは、いったいなになのか」、 「それはまた、貨幣増殖をまさに『最高善』たらしめている背後の(一段上の)最高善と、どういう関係にあるのか」という問題が提起される。ここでいよいよ、この問いにたいする可能な解答が求められ、まずは、「職業における熟達/有能さ」を称揚し、義務づける、独特の「職業義務観」が索出される。そのうえで、こんどは当の「職業義務観」を根拠づけ、「職業における熟達/有能さ」を「最高善」たらしめる、さらに背後の究極価値(要因)を求めて、(世俗的貨幣増殖/営利追求、総じて世俗的「職業」活動からみると)「非合理的」な「宗教性」の領域に(ここでは)一瞥が投じられることになる。
14.「職業における熟達/有能さ」を「最高善」とする「職業義務観」――「近代」的文化諸形象一般の「経営」構成原理
さて、問題がこのように明確に設定されると、その答えを『自伝』のなかに求めて、フランクリン自身に答えてもらうこともできる。あるとき、フランクリンは、「なぜ、そうまでして貨幣増殖に専念するのか」という問いを向けられて、(若いころカルヴィニストの父から繰り返し叩き込まれたという)『箴言』22: 29の聖句「あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王のまえに立つ」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)を引いて答えた、と記載されている。ヴェーバーによれば、この聖句はじつは、ピューリタンの説教師にして道徳神学者のR・バクスター(1615-91)が、「直接神に礼拝している時間以外は、自分の合法的職業lawful callingの仕事businessに、勤勉diligentにいそしみなさい」と説教するさいに、聖書からの典拠として繰り返し引き合いに出し、職業労働への精励を(「予定説の神」によって「選ばれているのか、それとも捨てられているのか」という不安から逃れる手段として)宗派宗教的に根拠づけていた箇所である[7](GAzRS, I, 169, 171、大塚訳、300-1, 304、梶山訳/安藤編、303-4,
306)。
ただし、このように聖書からの引用がなされたからといって、「倫理」論文の叙述がここですでに貨幣増殖と宗教性との関連という論点に移行した、と解するのは早計である。ヴェーバーはなるほど、そうして宗教的背景を示唆してはいる。しかし、その背景に立ち入ることは、それこそ「倫理」論文そのものの主題で、第一章第三節の予備考察(「ルターの職業観」)のあと、第二章の本論に委ねられている。ここではむしろ、上記の問いに、さしあたりつぎのような答えが与えられる。すなわち、なぜ「貨幣増殖」が「最高善」として称揚されるのかといえば、それは「近代の経済システムのなかでは、貨幣利得が、合法的におこなわれるかぎり、職業における熟達/有能さTüchtigkeit im Beruf の結果Resultatであり表示Ausdruckであって、この熟達/有能さこそが、……フランクリン道徳のアルファにしてオメガ」だからである、というのである。こうして、第一要素的理念型においては「究極価値」「最高善」とされていた「貨幣増殖」の背後に、それを「結果」「表示」「指標」として意味づける高次の「倫理的価値」「(一段上の)最高善」として「職業における熟達/有能さ」が索出された。たとえ「宝くじ」に当たって、あるいはたまたま(遺産として相続した)資産を売却して、莫大な貨幣が転がり込んだとしても、そういう「職業外の貨幣獲得」には価値がない。他方、「職業における熟達/有能さ」は、かならずしも経済の領域で貨幣増殖という「結果」に「表示」されるとはかぎらない。むしろたとえば(近代)知性/学問の領域で「業績(蓄積)」に、(近代)政治の領域で「権力の合法的制御/法秩序の安定(増進)」に、(近代)芸術の領域で「制作活動/作品(豊饒化)」に、「専業的集中化」と「主知化Intellektualisierung」(領域ごとの「固有法則性」を知性的に認識して知性的に制御する「合理化」)の「結果」として「表示」されもしよう。
こうして、ヴェーバーは、近代的文化諸形象(これをかれは、「資本主義文化」というふうにも呼ぶ)に汎通的で、近代経済の領域に現われては「貨幣増殖」を「最高善」たらしめる、高次の(さしあたりは)究極的な倫理的価値として、「職業における熟達/有能さ」を措定し、これを奨励し、義務として命じ、さまざまな領域で「結果」に「表示」されるべきことを説く、独特の「職業観」「職業義務観」を突き止めるにいたった。「突き止めた」といっても、もとよりそれは、「倫理」論文という一著作における方法的叙述の段取りとして、そのかぎりでのことにすぎない。著者ヴェーバーにおいては、むしろこの「職業義務観」のほうが、かれの実存史/生活史において、「近代科学」の領域における職業活動の蹉跌とこれにたいする近親者の対応から、当初痛苦をもって受け止められ、苦しみながら考えぬかれてきた原問題であり、「倫理」論文に先行し、その主題設定と構成を導いてきた動因であった。ただ、「倫理」論文の構成においては、ここで、「資本主義の精神」の第三特徴として、「職業における熟達/有能さ」を(さしあたりは)「究極の倫理的価値」とする「職業義務観」が索出され、「精神」とはその経済領域への発現形態である、と定式化されたのである(第三要素的理念型)。
ところが、そうするとこんどは、ではなぜ、「職業における熟達/有能さ」が、(どの領域に発現しようとも)「究極の倫理的価値」とされるのか、との問いが発せられよう。そこで、思考をまた一段、第三特徴の背後にまで遡行させ、「職業における熟達/有能さ」を「究極の倫理的価値」たらしめる、さらに高次の「究極価値」を突き止めることが課題とされる。そうした「究極価値」はおそらく、『箴言』句の引用によっても示唆され、予想はされるとおり、「宗教性」「宗教的価値(観念)」の領域に立ち入り、そのなかから探し出されるであろう。そして、それが索出された暁には、翻って、その「宗教的価値(観念)」と、問題の「職業義務観」とがどういう関連/「意味連関」にあるのか、「職業における熟達/有能さ」が称揚され、義務づけられる「宗教的根拠」はなにか、が明らかにされよう。こうした一連の問題が、内容上は、ここ(フランクリン文献による「暫定的例示」の終点)からも、「倫理」論文の本論(第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」)に連なり、そこで主題として究明され、極限遡行が続行される、と見ることもできよう。
しかし、ヴェーバーは、この第一章第二節「資本主義の精神」冒頭では、「精神」の核心にある「職業義務観」を取り出し、この第三要素を「歴史的個性体」概念に組み入れたところで、極限遡行は打ち切り、翻ってその歴史的「文化意義Kulturbedeutung」の探究に移っている。すなわち、フランクリンからの引証は、第7段落で、(行論を少し下ったところに明記されているとおり)「先にベンジャミン・フランクリンの例について見たようなやり方で、正当な利潤を職業としてberufsmäßig組織的かつ合理的に追求する志操」(GAzRS, I, 49, 大塚訳、72、梶山訳/安藤編、114)という「精神」の「暫定的定義」をえたところで、まさしく「暫定的例示」としての役割を完了する。そして、つぎの第8段落からは、ではそうした志操が、一般に近代資本主義ないし「資本主義文化」にたいして、どのようにはたらき、どんな意義を持ったのかを、そこでいったんフランクリンから離れ、むしろ(それ以前の経済の「基調」である)「伝統主義」と対比して、(また、これを忘れてはならないが、そうした志操の「精神」性/「エートス」性/「価値合理性」が影を潜め、「目的合理性」が「一人歩き」して、前面に進出してきた)「現状」との対比を念頭に置いて、浮き彫りにする、という課題に転進する。そのようにして歴史的「文化意義」(とその限界)を十全に把握された「精神」ないしは(その「迂回路」「搦手」でなく核心にある)「職業義務観」について、(まだ第一章「問題提起」の枠内に置かれている)つぎの第三節「ルターの職業観」では、文字どおり「ルターの職業観」に(「語形合わせ」でなく)「意味(因果)遡行」をくわだて、フランクリン父子のcallingがルターのBerufに(語形ばかりか語義/思想においても)直結しない、まさにその齟齬/不一致をこそ(「アポリア」でなく、順当な事実として)確かめ、それゆえ「ルターの職業観」の(「精神」の歴史的生成にたいする、そのかぎりにおける)「限界」を論じ、その「限界」を越えて両項がどこで、どうつながるのか、という歴史問題を設定し、これを本論の第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」に引き渡す段取りとなるわけである。
15. テクストを読むとは「鋏と糊で切り貼り」することではない――またしても混同のうえに「論拠」の所在を理由なく推定
以上、筆者は、「倫理」論文の関連叙述に表明されているヴェーバーの理念型的思考の筋道を、「合理化」の多義性を「嚮導概念」とするヴェーバー最晩年の方法的思考の適用例として、「目的合理(−非合理)性」「価値合理(−非合理)性」の二概念を導入して再解釈し、多少ともメリハリをつけて再現してみた。同じところを、羽入も、かれ流に再定式化しようと腐心している(177-9)が、かれの記述は、著者ヴェーバーの思考展開に穿ち入ることなく、字面を撫でるように「すぐ続けて……」、「そして次に……」、「そして次に……」と「鋏と糊で切り貼り」の引用を連ねるばかりである。その途上では、案の定、「とらわれぬ感じ方からするならば無意味としか映らぬ」(178)、「『自然な』事態のまるっきり無意味な倒錯」(179)、「資本主義のライト・モチーフであるところの無意味な倒錯」(179)と、ヴェーバーの誘い水に繰り返し溺れ、「自然主義」の虜になっている。その結果、なるほど叙述の順序からしては当然「職業義務の思想」に行き当たる。しかし、それが、「精神」にたいしてどんな関係にあるのか、「理念型複合」として「歴史的個性体」概念を構成して途上で、いかなる位置を占めるか、どんな意味で「合理化」の遡行極限としての「非合理的価値」をなすのか、といった方法上の問題にはまったく無頓着である。
この箇所は、ヴェーバーの理念型的思考展開のコンテクストでは、前項で詳述したとおり、羽入が問題としている「(貨幣増殖を『最高善』とする)個々人の『幸福』や『利益』にたいしては『非合理的』な要請」(第一要素的理念型)そのものの「論拠」ではなく、その背後に遡行して初めて突き止められた「貨幣増殖をまさに『最高善』たらしめている(さしあたり)究極の倫理的価値『職業における熟達/有能さ』」(第三要素的理念型)の論拠である。ヴェーバーの思考は、前者から後者へと、「(営利追求の実践的)合理化」の遡行極限を探り出す方向で一段進展しているのである。ところが、羽入は、ヴェーバーの思考展開には穿ち入れず、字面だけで冗漫な引用を連ねてきただけなので、この重要な進展をそれとして捉えることができない。ここでまたしても、前者の論拠と後者のそれとを混同/同一視(「一緒くた」「ごちゃ混ぜ」に)する。そしてすぐさま、「ヴェーバーは一体どこから、……この『職業義務の思想』というものを取り出してきたのであろうか」と問い、典拠を問うべき論点は確定しないまま、論点がずれてきていることには気がつかないまま、典拠への問いに転じてしまう。そしてその問いに、やはり叙述の順序から、「もちろん、言うまでもなく、『自伝』でフランクリンが引用した聖書の言葉からである」(179)と答えている。
さて、「この『今日のわれわれにはよく知られた、しかし本当のところは少しも自明でない職業義務という独特な思想』[8]の歴史的由来の探究こそが、『倫理』論文の主題であった」(178)とは、羽入とともに認めることができよう(ここは、「倫理」論文の主題とはなにか、と問うべきところではなく、問われてもいないのではあるが)。しかし、たとえそうでも、著者ヴェーバーが、その主題を設定して研究に着手するまえに、当の「職業義務の思想」を「どこから取り出してき」て、どのように問題とし、(やがて構想が成って)研究主題に据えるにいたったのかは、著者の思想形成史/展開史、さらには生活史とその背景にまで遡って究明されるべき問題であり、それ自体ひとつの研究テーマであろう[9]。そうした広い視野で、事柄に即して見たばあい、「職業義務の思想」の出所が、当の主題を取り上げて論じ、発表した論稿における初出の箇所と一致するかどうかは、「少しも自明で[は]ない」。そこを羽入は、「もちろん、言うまでもなく」と力み返り、さながら自明のことでもあるかのように語っている。ということは、かれが、問題を、著者における思想展開のコンテクストのなかで取り上げるのではなく、書き上げられ、発表された「倫理」論文、それも第一章第二/三節冒頭の字面に視野をかぎって見ており、しかも、そうした「井の中の蛙」視座の自覚がない、という実情を問わず語りに語り出しているといえよう。
さて、羽入は、そのようにして、フランクリンの『自伝』から『箴言』句引用の箇所を抜き出してはきた。しかし、引用される『箴言』句は、「個々人の『幸福』や『利益』にたいして『非合理的』な要請」の背後にある「職業義務観」そのものの論拠として、さしあたり「職業における熟達/有能さ」を称揚していれば十分であって、それ自体が「個々人の『幸福』や『利益』にたいして『非合理的』な要請」そのものないしはその「論拠」をなしているかどうかは(一段前と後段の問題で、ここではさしあたり)問うところではない。羽入もそれを、「立身出世主義的な上昇指向を目指した……その限りでは『幸福主義的な』忠告と……すらみなすことが許されるであろう」(180)と述べている。ところがかれは、そこからつぎのとおり、短絡的な推論を開陳する。
「しかしだとすると、ヴェーバーは『自伝』の[と決めてかかって]一体どこから“フランクリンの倫理[の一面でなく、まるごとのそれ!?]は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ[!?]超越している”などという自分の[羽入の!?]主張の論拠となる部分を見出してきたのであろうか。フランクリンによって引用された聖書の言葉自体にはそうした類の言及は含まれていぬ以上、そして、他方ではヴェーバーは『倫理』論文の叙述の流れ[!?]から見てみる限りやはり[!?]この『箴言』からのフランクリンによる聖書の言葉の引用部分を自分の主張の論拠部分と考えているらしい[!?]以上、調べてみるべきはフランクリンが『自伝』の中で一体どういう文脈の内で[!?]この聖書の言葉を引用したのか、ということになろう。」
ここで、「“フランクリンの倫理は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ超越している”」というが、それは、これまで詳細に論じてきたヴェーバー本人の主張とはいささかも関係のない、羽入の誤解(意図的に一面的に鋭く定式化された要素的理念型の鈍化/実体化)というほかはない。それはともかく、「手掛かりとなるような箇所」(177)を探すのに、ただたんに「叙述の流れ」をなぞっただけで、ヴェーバーが「聖書の言葉の引用部分を自分の主張の論拠部分と考えているらしい」と(そう特定する根拠も明示せずに)推論できるとすれば、およそどんなところでも「論拠部分」に仕立てられるであろう。しかも、羽入は、「叙述の流れ」をたどっているうちに、第一要素的理念型(「貨幣増殖」を、確かに個々人の「幸福」や「利益」に超越する「最高善」として要請する、「精神」の一面)と第三要素的理念型(貨幣増殖をまさに「最高善」たらしめるものが、結果として貨幣増殖にも表示される「職業における熟達/有能さ」であり、これが「精神」の核心をなすという、もとより関連はあるが別次元の一面)とを混同してしまっていた。さらには、ここで、その「論拠」が当の「聖書の言葉の引用部分」に見つからないとしても、その「文脈の内」には見つかるはずだという、なんの理由も保証もない推断を下している。そこを羽入は、「ヴェーバー好みの言い回しで」と気をきかして、つぎのように語る。
「したがって、もしもフランクリンの『自伝』の内に[と決めてかかって]フランクリンの倫理[一般!?]が個々人の『幸福』や『利益』を超越しているという[羽入作]ヴェーバー[藁人形]の主張の論拠となる部分が見出されるべきである[!?]とするならば、われわれは嫌が応でも[東西東西!]、それを引用された聖書の言葉そのものの内にではなく、その聖書の言葉の前後に[!?]、すなわち、それが引用されている『自伝』のコンテキストの内に[!?]求めるより他はない[!?]のだ、と」(180)。
玉突き主ルターの気紛れから打ち出された「Beruf玉」が、遠くにある『ベン・シラ』の「ergon 玉」と「ponos玉」に当たったからには、近くにある『箴言』の「ergon玉」にも当たるはずではないか」という前章の論法が思い出されよう。とまれ、羽入書第三章第四節末尾で上記のように前置きされ、第五節「『自伝』におけるコンテクスト」冒頭にうやうやしく引用される、頼みの「聖書の言葉の前後」には、はて、なんとしたことか、「フランクリンの倫理(の一面)」が個々人の「幸福」や「利益」に超越する『非合理』性を帯びているという事実の、歴然たる証拠が見いだされる。
(2005年2月26日脱稿、つづく。前3−5稿の結びでは、この3−6稿で、羽入書第三章への批判を締め括る旨、予告いたしました。ところが、「多義的『合理化』概念の方法的意義」という3−5稿の論旨を、当面の「フランクリンの経済倫理」論に適用/展開して、「倫理」論文の当該箇所を再解釈するとどうなるか、という問題に深入りし、それだけでひとまとまりの分量になってしまいました。そこで、今回はいちおうここで区切り、残りの羽入書第三章第五節批判は、つぎの3−7稿に送りたいと思います。予定変更、悪しからずご了承ください。)
[1] 「戦後近代主義」に折衷的に取り込まれていたマルクス主義からは、「世界史像」の破産を直視せず、『経哲草稿』に戻ってフォイエルバハに遡り、他方、K・レーヴィットからニーチェにも遡って両系譜をつなげる、という軽業により、この「自然主義」を蘇らせ、余命を保とうという企てが生まれている。この見地は、「戦後近代主義」の「同位対立」として価値符号を逆転させる一種の「祖型回帰」であるが、ヴェーバー著作の内在的解読を深めるのでなく、都合のよい断片を引き抜き、誘い水に乗って「自然主義」的観点に引き寄せては、「ヴェーバー研究」と称している。レーヴィット自身も、折角ヴェーバーの注記に止目しながら、「非合理への合理化」という一例示(「自然主義」という可能的一観点からする相対的一評価)にコミットしてしまい、「合理化」の多義性とその意義という注記の主旨は汲み出せなかった。かれの論文が発表された1930年代当時には、「世界宗教の経済倫理」シリーズはほとんど読まれていなかったので、それもまたやむをえなかったろう。
[2] ヴェーバーは、この「自然」のばあいもそうであるが、しばしば引用符をつけて「人間的」「非人間的」と表記したりもする。そうした誘い水の引用符には、「特定の『人間』規準から見れば『人間的』ないし『非人間的』と評価されようが、その規準自体が問題」という留保のニュアンスが籠められ、かれ自身はそうした評価に距離をとって問題視しているばあいが多い。そういう箇所を引用しては、当の「規準」がかれ自身の規準であるかのように速断する文献も、まま見受けられるが、皮相な読解による短絡的解釈というべきである。
[3] そのさい責任規準のひとつに、「自然環境」と「人間的自然」の尊重が掲げられのは当然であるし、個別問題の現実的解決をめざす運動体が、そういうスローガンのもとに相互に交流をもち、「ゲマインシャフト形成」さらに「ゲゼルシャフト結成」を遂げるのも、もっともである。そういう思想ならびに社会運動は、社会科学の重要な研究テーマとされてしかるべきであるし、現に「環境社会学」、「社会運動の社会学」といった諸部門で活況を呈している。ただそうした思想や運動の当事者および研究者には、「ヴェーバーは近代主義者か反近代主義者か、近代擁護者か近代批判者か」といった生硬な二者択一(書生風/「火事場泥棒」風の「スコラ論議」)に耽っている暇はないであろうし、なくて当然であろう。
[4] ヴェーバーは、精神神経疾患の一時的緩解期に妻宛てにしたためた手紙でも、「仕事の重荷のもとにうちひしがれたような気持ちでいたいという欲求はなくなった」と書き、「人間的な生活を十分に味わい、そうしている自分を可能なかぎり幸福な気持ちで見つめていたい」と、感性的また美的な生活価値に心眼を開きながら、「だからといって、精神の苦しい作業が以前のようにはできなくなる、ということはないと思う」(『ヴェーバー学のすすめ』、12ぺージ)と結んでいた。かれは、自分の病気を距離化/対象化しえた瞬間に、「職業主義か反職業主義か」、「近代主義か反近代主義か」といった生硬な二者択一から解放されたのである。
[5] こうした理念型的思考展開からは、その後の「近代資本主義」的営利追求の変動傾向とその実態/病態にたいする一連の仮説が導き出されようが、それはまた別の問題圏に属し、ここでは立ち入らない。
[6] 逆に「価値合理性」を徹底させ、「目的合理性」を排除していけば、キルケゴール流の「志操倫理Gesinnungsethik」にいきつく。拙著『ヴェーバー学のすすめ』、100-1ぺージ参照。
[7] ヴェーバーは、この問題に、「倫理」論文の本論(第二章)第二節「禁欲と資本主義精神」で論及し、その一節への注記で、『箴言』22: 29を「フランクリン以来われわれによく知られている箇所」(GAzRS, I, 171, 大塚訳、304、梶山訳/安藤編、306)として挙示し、同じく『箴言』31: 16以下にみえる「労働の賛美」と併置していた。羽入が、「倫理」論文一篇でも通読してこの箇所を読んで考えていれば、(他方では、「古プロテスタンティズム」をルターひとりと読み誤らなかったとすれば)、18世紀フランクリン父子のcallingを16世紀ルターのBerufに直結しようというような無謀な挙には、出ないですんだであろうか。なお、『箴言』22: 29は、新共同訳では「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない」と訳出されている。ちなみに、「巧みな」「熟練して」と訳されているdiligent, rüstigのヘブライ語原語は、māhiyr(quick, skillful)である。
[8] たとえば「なんであれ少しでもやる価値のあることは、立派にやり遂げる価値があるWhatever is worth doing a little, is worth doing well」という周知の英語の諺も、この「職業義務思想」の「抽象的なこだま」であろう。
[9] 筆者による解答の粗筋は、拙著『ヴェーバー学のすすめ』第一章に提示した。